明治16年(1883):0歳 |
11月10日、神戸市の坂本村(現神戸市中央区楠木町)に父海関・母フジの長男として生まれる。
幼名は成常、後に関一(貫一)と改める。
父は通称小六、海関と号し、旧明石藩の儒者で漢学・詩文に通じ『壇城古都詩』、『古琉球吟』その他の著書がある。
母は池田氏フジ、書画に堪能で経書に通じていた。 |
明治23年(1890):7歳 |
神戸市湊川尋常高等小学校に入学し、傍ら父より家学(漢詩・書画など)を受ける。 |
明治28年(1895):12歳 |
- 湊川尋常高等小学校を中退する。この頃より絵画に対する興味を持つようになる。
- 4月、市外平野村に住む四条派の画家片岡公曠に入門。傍ら漢詩を作り、和歌・俳句などにも興味を示す。
- 京都岡崎で開催された第4回内国勧業博覧会(4・1~7・31)で席上揮毫する。
|
明治31年(1898):15歳 |
5月、絵画修行を志して上京する。 |
明治32年(1899):16歳 |
神戸に帰る。父海関は経済上の理由により兵庫県尾上村に隠棲し、関雪は自活を余儀なくされる。 |
明治33年(1900):17歳 |
4月、神戸美術協会主催で東宮御慶事記念展覧会が催され、『王昭君』を出品し、御前揮毫を仰せつかることとなる。 |
明治34年(1901):18歳 |
曽根神社(高砂市)へ『管公図』絵馬を奉納する。春、吉野へ旅行する。 |
明治36年(1903):20歳 |
冬、京都に出て光村利藻氏の紹介により、竹内栖鳳の竹杖会に入る。
岩見ヨネと出会う。 |
明治37年(1903):21歳 |
岩見ヨネと結婚する。 |
明治38年(1906):22歳 |
- 東京美術研精会主催展覧会に『四面楚歌の声』を出品し、研精賞を受ける。
満州軍総司令部嘱託として、日露戦争に従軍する。
|
明治39年(1906):23歳 |
神戸在住の若手画家達を集め、神戸絵画研精会を興し、その機関紙『白毫』を編集発行。 11月22日、水曜会展覧会(於京都倶楽部)に出品。 |
明治40年(1907):24歳 |
10月、第1回文展(於上野竹之台10・25~11・30)が開催され、『達磨と五祖』を出品したが、落選する。 |
明治41年(1908):25歳 |
10月、第2回文展(於上野竹之台10・15~11・23)に『鉄嶺城外の宿雪』が入選。
上京して谷中清水町に住む。 |
明治42年(1909):26歳 |
10月、第3回文展(於上野竹之台10・15~11・24)に『失意』を出品、褒状を受ける。 |
明治43年(1910):27歳 |
10月、第4回文展(於上野竹之台10・14~11・23)に『琵琶行』を出品、褒状を受ける。
この頃、生活は困窮を極める。 |
明治44年(1911):28歳 |
10月、第5回文展(於上野竹之台10・14~11・19)に『片岡山のほとり』『異見王達磨を送る』を出品、前者は褒状を受ける。 |
明治45/大正元年
(1912):29歳 |
10月、第6回文展(於上野竹之台10・13~11・17)一科に『松下煎茗』を、二科に『五醍醐帝』を出品し、共に褒状を受ける。 |
大正2年(1913):30歳 |
- 5月、この年初めて中国大陸を遊行する。
船で揚子江を溯り重慶に至り、さらに上海、浙江省、蘇州、北京、満州、朝鮮などを経て6月末に帰国する。
- 9月、京都に移り岡崎徳成橋畔に住む。
- 10月、第7回文展(於上野竹之台10・15~11・18)二科に『遅日』を出品、二等賞を得る。
|
大正3年(1914):31歳 |
6月、大正博覧会に『桃源郷』を出品、銀賞を得る。
10月、第8回文展(於大正美術館跡10・15~11・18)に無鑑査で『南国』と『後苑』を出品、前者は二等賞を得る。 |
大正4年(1915):32歳 |
- 10月、第9回文展(於竹之台10・14~11・14)に無鑑査で『猟』『狭江の六月』を出品、前者は二等賞を得る。
11月、文展画稿展(於宝塚パラダイス内陳列場11・17~?)に『猟(画稿)』を出品。
南禅寺山内金地院に移る。
この年、明石の二見に蟹江白鱸荘完成。
|
大正5年(1916):33歳 |
- 10月、第10回文展(於竹之台10・14~11・20)に無鑑査で『寒山拾得図』『煉丹』を出品、前者は初めて特選となる。
10月、京都市左京区浄土寺石橋町に白沙村荘が完成し移り住む。
|
大正6年(1917):34歳 |
10月、第11回文展(於竹之台10・16~11・20)に無鑑査で『睨雲林』を出品、特選となる。
金島桂華らと共に中国を旅行。 |
大正7年(1918):35歳 |
10月、第12回文展(於竹之台10・14~11・20)に無鑑査で『木蘭』を出品、特選となる。
本年より永久無鑑査の"推薦"となる。 |
大正8年(1919):36歳 |
- 5月15日、京都美術学校新設問題について、京都市長安藤謙介氏は橋本関雪、竹内栖鳳、山本春挙、上村松園らを集めて協議を行った。
- 6月、栖鳳門下小品展(於白木屋6・24~28)に『松下弾琴』『桃果』『竹露』『竹窓夜談』『砂川窯業』『富士』などを出品。
- 9月、橋本関雪小品展<高橋志摩五郎氏所蔵>(於日本橋美術倶楽部9・20~22)が開催される。
10月、第1回帝展(於竹之台10・14~11・20)の審査委員をつとめ、『郭巨』『遊踪四題』を出品。この年、関雪の門下生によって"新篁会"が組織される。
|
大正9年(1920):37歳 |
10月、第2回帝展(於竹之台10・13~11・20)の審査委員をつとめ、『木蘭詩』『林和靖』を出品。
東京博覧会の審査委員をつとめ、『木蘭詩巻』を出品。 |
大正10年(1921):38歳 |
- 5月5日、長男節哉を伴って、神戸より北野丸にてヨーロッパ旅行に出発。
フランス、ドイツ、オランダ、イタリアなどを巡って12月に帰国。
10月、外遊のため帝展不出品、審査委員も辞退。
|
大正11年(1922):39歳 |
- 4月、平和記念東京博覧会の日本画の審査委員をつとめる。
- 5月、新篁会複製会(於京都市公会堂5・9~11)を開き、関雪がヨーロッパから持ち帰ったミケランジェロの『アダムの創造』などの複製を出品。
- 10月、第4回帝展(於竹之台10・14~11・20)の審査委員をつとめ、『聖地の旅』 を出品。
11月、個展(於三越11・14~18)に『閑庭春色』『留園一角』『小院春夕』など44点を出品、同時に関雪所蔵の名画を陳列する。
この年、銀閣寺畔第2疎水に桜の若木を植える。俗に"関雪桜"と呼ばれる。
|
大正12年(1923):40歳 |
- 8月4日、帝展展覧会委員に任命されるが、9月に関東大震災が起こり、帝展は開催されなかった。
11月、日本美術展(大阪毎日新聞社主催、於京都第2勧業館11・20~12・15)の審査委員を務める。
この年、竹内栖鳳の竹杖会を脱会するという。
|
大正13年(1924):41歳 |
- 5月12日、帝展美術院委員となる。
- 10月、第5回帝展(於竹之台10・15~11・20)の審査委員を務めるが、作品は出品せず。
11月、個展(於三越10・26~30)に『船』『連甍吐月』『春江惜別』『楊妃酔酒』『荒村薄暮』『春暖』などを出品。
|
大正14年(1925):42歳 |
- 5月、第5回中央美術展(於上野竹之台5・3~24)の鑑査員を務める。
- 6月、関雪自撰30題展(於京都美術倶楽部6・4~5)に『蓮池烟月』『芝蘭競栄』『仙艶』『聴泉図』『月下瀑泉』『魚楽』『摘瓜図』『煙江細雨』など30点を出品。
- 10月、中央美術10周年記念展(於日本橋東京美術倶楽部10・8~12)に『採蓴』を出品。
- 第6回帝展(於竹之台10・16~11・20)に『相牛』『摘瓜図』を出品。
この年、関雪画塾"新篁会"解散。
|
大正15年/昭和元年 (1926):43歳 |
- 2月、第7回中央美術展(於上野日本美術協会2・15~3・5)の鑑査員を務める。
- 3月、関雪、石井林響、小杉未醒、森田恒友、小川芋銭、錢痩鐵、王一亭、劉海栗の8人の日中画家が古画の研究と鑑賞を目的として"解衣社"を結成。
- 5月、第1回聖徳太子奉讃展(於東京府美術館5・1~6・10)に日本画の代表委員として、『僊女図』を出品。
- 6月、郷土美絵画展(美之国社主催於三越6・1~7)に『漁樵問答』を出品。
- 7月、解衣社第1回展(於三越10・26~29)に『湘江煙雨』『看馬』、ならびに金冬心筆『墨竹図』を出品。
- 10月、個展(於三越10・26~29)に『江村秋興』『直峡行帆』『風雨敲問』『山楼聴雨』『秋江買魚』『野店対酌』『飼馬図』『馬』『鑑魚図』『青緑蓬來仙遊』『僊山看棋』『秋林牧童』『白雲紅樹』『江于捕魚』『秋郊帰牧』など23点を出品。
11月、関雪、西村五雲、西山翠嶂、堂本印象、福田平八郎、菊池契月の6人で『六合会』を創立し、第1回帝展(於丸ノ内生命保険協会11・10~16)を開催し、『長安一片月』を出品。
|
昭和2年(1927):44歳 |
- 4月、婦人と娘を伴って二度目のヨーロッパ旅行に出発。長男と次男は先にフランスにおり、ヨーロッパ数カ国を巡る。
- この頃より、ギリシャなどの外国美術のコレクションを始める。
- 6月、明治大正名作展(朝日新聞社主催、於東京府美術館6・3~30)に『遅日』(大正2年)、『木蘭詩』が出品される。
- 1月、ヨーロッパより帰国。
10月、第9回帝展(於東京府美術館10・16~11・20)に『意馬心猿』を出品。
|
昭和3年(1928):45歳 |
- 6月、パリ日本美術展(6・1~7・25)に『木蘭詩』『瀟湘』を出品し、後者はフランス政府買い上げとなる。
- 7月、美之国五周年記念展(於三越7・17~21)に『闌春』を出品。
10月、第10回帝展(於東京府美術館10・16~11・20)の審査委員を務め、『長恨歌』を出品。この作品はドイツ日本美術展に出品される。
|
昭和4年(1929):46歳 |
- 3月、第2回聖徳太子奉讃展(於東京府美術館3・17~4・14)に『波ニ鷲』(久邇宮家襖)を出品。
- 4月、ローマ日本美術展(於ヴィ-ア・ナチョナ-レ4・26~6・1)に『猿猴図』『暖日の図』を出品。
- 5月28日、紀州矢の子峠にて自動車事故により負傷する。
10月、第11回帝展(於東京府美術館10・16~11・20)に『訪隠図』を出品。
|
昭和5年(1930):47歳 |
- 3月、夫人同伴で中国に旅行し、西湖、鎮江を経て天台山に登る。
11月、「トレド-市、ニューヨーク市日本美術展」(於トレド-市11・6~12・6)(於ニューヨークレーリッヒ博物館)に『木蘭詩巻』を出品、その後、この作品はボストン美術館へ寄贈された。
|
昭和6年(1931):48歳 |
- 11月、個展(於大阪髙島屋11・24~29)に『談山論水』『想思』『仙山採薬』『赤壁之図』『観音の図』など20数点を出品。
12月19日、1929(昭和4)年6月パリで開催された「日本美術展」の功により、竹内栖鳳、横山大観、松岡映丘らと共にシュバリエ・ド・レジョン・ド・ヌール勲章を授与される。
|
昭和7年(1932):49歳 |
- 4月14日、妻ヨネ東京にて死去。
法名・玉質院浄貞瑞米大姉。
3月、満州国皇帝に『老松鷲の図』を献上する。
|
昭和8年(1933):50歳 |
- 4月、鄭考胥満州国総理が白沙村荘に、関雪の父海関を訪ねる。『細雨春帆』を贈る。
5月、大礼記念京都美術館開館記念(於京都美術館5・1~25)に『夕月』を出品。
|
昭和9年(1934):51歳 |
- 5月、個展(於三越5・1~6)に『朝』『猿猴図』『桃花暖日』『老松春鳩』『塔雲含雨』『山村新緑』『緑竹紅衣』『晩涼帰温』『田家晩秋』『野頭暮色』『蓬莱仙境』『仙女図』『朧夜』『月下飛瀑』『渓山老盗』などを出品。
- 6月27日、近代美術館建設期成会の発起人に参加。
10月、第15回帝展(於東京府美術館10・16~11・20)に『暮韻』を出品、宮内省買い上げとなる。
11月、個展(於大阪高島屋11・14~16)に『寒汀宿鴨』『壽老』『麗日』を出品。
12月3日、帝室技芸員に任命される。
|
昭和10年(1935):52歳 |
- 2月、川路柳虹讃詩画展(於上野松坂屋2・9~15)に『山鳩』を出品。
4月、東京府美術館開館一〇周年記念展(4・1~21)に『長恨歌』を出品。
5月、第1回京都市美術展(於京都美術館5・20~6・13)の展覧会委員を務める。
6月、帝国美術院会員に任命され、これを機に有志より『新篁会』が再興される。
- 11月、個展(於三越11・1~5)に『猫』『秋桜老猿』『柘榴雪衣』『喬松蒼鷹』『雨後新月』『竹林暮煙』『南枝双鳩』『霜樹栗鼠』『夕露』など十二点を出品。
- 11月12日、父海関歿す。享年81歳。
12月、橋本関雪詩書の会(於京都大丸)に『春江夜月』『楚山暁靄』『歳朝清供』『山居秋声』『山中夜居』などを出品
|
昭和11年(1936):53歳 |
- 2月、改組第1回帝展(於東京府美術館2・25~3・25)に『唐犬図』を出品。
- 5月、古川北華を中心に、関雪、津田青楓、正宗得三郎、牧野虎雄、銭痩鉄の6人で『興遊会』を結成し、その第1回展(雄上野松坂屋5・29~6・2)を開く。
- 6月12日、冨田渓仙、横山大観、鏑木清方、川合玉堂ら14人の会員とともに帝国美術院に辞表を提出。
- 9月、第1回新篁会展(於京都大丸9・22~27)が開催され、関雪も2点賛助出品。
11月、大倉集古館創立20周年記念店(11・3~12・5)に『暖日』が出品される。
|
昭和12年(1937):54歳 |
- 3月、盲腸炎をわずらう。
- 4月、明治大正昭和三聖代名作展(大阪朝日新聞社主催、於大阪市立美術館4・25~5・25)に『玄猿』『木蘭詩』『雨後の月』が出品される。
- 5月、個展(於三越5・2~9)に『双猿』『清昼』『飼馬』『風雨飲馬』『午蔭』『霜樹濯錦』『柳蔭牧茹』『山村雨意』『後赤壁』『秋爽』『玉樹春粧』など2点を出品。
5月、第2回京都市美術展(於京都市美術館5・29~6・17)に『夏草』を出品。
6月23日、帝国芸術院が成立し、会員に任命される。
10月、第一回新文展(於東京府美術館10・16~11・20)に『赴征』を出品。
|
昭和13年(1938):55歳; |
- 5月、第3回京都市美術展(於京都美術館5・1~20)の審査委員をつとめる。
6月、第3回新篁会展(於京都大丸6・1~4)に『風』を出品。
6月、本山竹荘還暦記念展(於東京美術倶楽部6・7~9)に『涼宵』『夕月』を出品。
6月、第17回朝鮮美術展(於景福宮)の日本画の審査委員をつとめる。
- 11月、個展(於三越11・1~6)に『猿の図』『芙蓉猫』『鷹』『柳鷺』『湖上清暁』『雨後』『巣鴨』『秋圃』『泊舟(上海十六浦)』『一甲及第』の10点を出品。
11月、新篁会展(於神戸大丸)に『兎』を出品。
|
昭和15年(1939):56歳 |
- 2月、紐育(ニューヨーク)万国博国内展示(於三越2・1~7)に『霜猿』を出品。
- 3月、新篁会第2回大阪展(於大阪高島屋3・15~17)に『大楠公』『狆暖』を賛助出品。
- 4月、ニュ-ヨーク万国博(4・30~10・30)に『霜猿』を出品。
- 6月、美之国創刊15周年記念展(於新宿伊勢丹6・9~14)に『水郷』を出品。
- 7月、第1回聖戦美術展(於東京府美術館7・6~23)の審査員をつとめ『江上雨来る』を出品。
- 10月、橋本関雪聖戦記念画展(於三越10・21~23)に『軍馬二題』『恵日東臨』『宿舎の灯』『秋風』『河霧』『戦塵』『迷彩』『流民』『焼土春かへる』『江上雨来る』『残照』などを出品。『軍馬二題』は朝日賞を受ける。
- 10月、第4回新篁会展(於京都大丸10・24~29)に『冬晴』を賛助出品。
11月、橋本関雪聖戦画内示展(於京都美術館11・11~15)を開催。
|
昭和15年(1940):57歳 |
- 3月、橋本関雪スケッチ内示展(於高島屋3・8~13)に『運河守備隊』『西湖採蓴』など約60点を出品。
- 4月、紀元二千六百年奉祝日本画大展覧会(大阪毎日新聞主催、於京都美術館4・21~5・15)の審査委員をつとめ、『柳蔭馬を洗ふ』を出品。
- 5月、日本画展(東京日日新聞社主催於東京府美術館5・25~6・16)に『玄猿』を出品。
- 11月、紀元二千六百年奉祝美術展覧会(於東京府美術館11・3~24、京都美術館12・3~17)の展覧会委員をつとめるが、不出品。
11月、橋本関雪新作画展(於京城三越11・27~30)を開催。
12月7・8日、かねてより製作中の京都建仁寺方丈の襖絵『生々流転』『松韻(寒山子)』『伯楽』『深秋』『蕭條』の60面が完成し京都東山花見小路の建仁寺において披露される。
|
昭和16年(1941):58歳 |
- 2月、個展(於大阪高島屋2・20~22)を開催。
- 5月、橋本関雪聖戦記念画展(於三越5・1~4)に『両面愛染明王』『玄猿白鶴』『俊翼』『楓橋鎮』『江村急雨』『暮雨泊船舟』『八絋春雨』『緑樹淡声』『晩涼洗馬』の10点を出品。
- 5月、第6回京都市美術展(於京都美術館5・1~20)の審査委員をつとめる。
- 7月、第2回聖戦美術展(於上野日本美術協会7・1~20)の審査員をつとめる。
- 9月、仏印(フランス領インドネシア)巡回日本画展内示会(於三越9・9~10)に『水郷急雨』を出品。
10月、第4回新文展(於東京府美術館10・16~11・20)に『夏夕』を出品。
|
昭和17年(1942):59歳 |
- 朝日新聞社の委託により、吉川英治とともに南方の空を飛ぶ。
- 10月、第5回新文展(於東京府美術館10・16~11・20)に『防空壕』を出品。
- 10月、満州建国十周年慶祝展に『髪』を出品。
- 11月、橋本関雪南方連作展(於京都大丸11・17~22ほか)を開催。
軍用機献納展に『春潮』を出品。
|
昭和18年(1943):60歳 |
10月、第6回新文展(於東京府美術館10・16~11・20)に『霧』を出品。 |
昭和19年(1944):61歳 |
- 2月、戦艦献納展(2・1~29)に『牛』を出品。
- 3月、第2回大東亜戦争美術展(於京都美術館3・8~22)に『黄浦江の朝』を出品。
- 7月、平安神宮御鎮座五十年平安遷都千百五十年奉祝京都市美術展(於京都美術館7・1~23)の審査員をつとめる。
- 7月、陸軍献納画展(7・15~31)に『霜鷹』を出品。
11月、戦時特別文展(於東京府美術館11・25~12・25)に『香妃戎装』を出品。
|
昭和20年(1945):
享年61歳 |
2月26日午前1時20分、狭心症の発作により死去。満61歳3ヶ月。月心院空厳関雪居士は生前自ら記した戒名である。
大津市大谷町走井、瑞米山月心寺に葬られる。 |